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城(グスク)散策3 南山城跡

2013-05-04
埋もれて眠ったままの「夢の跡」
2013.5・4(土)


古琉球の一時代に「三山時代」というのがある。
「山」は「国」と同じ意味で、琉球の三つの国から明国(現在の中国)に進貢していた。
それで、明国で「琉球の三山」と命名した。
私たちは、「南山、中山、北山」といっているが、当時の明国では、「山南、中山、山北」と呼称していたようである。
今日は、その三山時代の南の雄、南山城跡の散策

中山城が首里城、北山城が今帰仁城というのはほとんどの方が知っている。
しかし、南山城はどこ?と聞かれると、多分、半数の方は答えられない。
三山を形成した一方の雄であるのに、これは寂しい。

南山城は、別名、島尻大里城とか高嶺城、高嶺大里城と呼ばれ、昔なら高嶺間切大里村、現在の糸満市高嶺、高嶺小学校の敷地の一角にある。
旧大里村(現南城市)にも大里城があり、それを南山城と勘違いしている方もいるが、
南山城は「島尻大里城」、旧大里村の大里城は「島添え大里城」と呼ばれ、全くの別物である。

糸満ロータリーを与那原の方向へ進み、照屋東交差点をVターンして、県道7号線を南(ひめゆりの塔方向)へしばらく行くと、右手の樹木がこんもり茂った丘の上に高嶺小学校があり、その一角に南山城の遺跡の一部がある。

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1922(大11)年に造られた「南山城址」石碑

普通、私たちのイメージにある「沖縄の城跡」というと、
今帰仁城や座喜味城、勝連城、首里城などなどに代表されるように、
高く積まれた石垣があり、そのなかに、一の郭、二の郭、三の郭などの遺跡がある。そして、その遺跡を見て、私たちは、当時の英雄たちの息吹きを感じ、英雄たちが夢見た理想郷や野望を連想する。
ところが、
悲しいかな、南山城にはそれがない。
かつての城跡(しろあと)には高嶺小学校が建ち、英雄たちの夢の跡は、校舎とグラウンドの土の下に深く眠っている。

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南山神社あたりから見た高嶺小学校。右手手前に「南山城址」の碑がある

高嶺小学校は1886(明19)年に高嶺間切の番所内に設置されている。
それが、1913(大2)年に南山城跡に移転することになり、整地工事のために、周辺石垣や遺跡等を破壊した。一方で、城跡内に点在していた拝所を一箇所に集めたり、墓なども合祀した。
そのときに出来たのが南山神社である。
南山神社は、1915(大4)に遷座式が行われている。
その結果、南山城の面影は、その南山神社の一角に残るのみとなった。(参考:糸満市史旧高嶺村編)

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南山クラブの花園(上段右)と沿道沿いの外観      南山神社への石段   

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ガジュマルの気根に覆われた拝所(後方も拝所)と根の張ったモクマオウの大木

南山神社の敷地内に、2001(平13)年に糸満市教育委員会が立てた案内板がある。
説明文には、
「南山城は琉球三山分立時代(14世紀)に栄えたグスクです。南山は明国と交易を盛んに行い、財源を得たり、明文化を移入したりして城を中心に南山文化を築いてきました。15世紀なって中山尚巴志に滅ぼされるまで朝貢回数は22回を数えます。1984年発掘調査が市教育委員会によって行われ、中国製陶磁器やグスク系土器の他、備前焼きスリ鉢、鉄鏃(てつぞく)、ガラス製勾玉などが出土しています。これらの遺物から南山城は13世紀頃に築かれ、14~15世紀前半に栄えていたことが分かりました」
と、記されている。
しかし、城郭などの遺跡はなく、
城の全体像を表す平面図もない状態では、どんな遺物が出てきても、あるいは、どれだけ栄えたといわれても、
絵に描いた餅と同じで胸に迫るものがない。想像しようにも術がない。

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高嶺小入口アプローチにある当時の野積みの石垣(上辺)と大正時代の石垣(西側)
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発掘調査が行われていた

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南山神社                        神社後方の山川方、西銘方按司御墓



琉球国旧記(巻之五)に古城として「山南城」(=南山城)が記されている。
「俗に島尻大里城とよぶ。高嶺屋久村にある。もとの領地の間切は、計12間切で、大里、佐敷、知念、玉城、具志頭、東風平、島尻、喜屋武、摩文仁、真壁、兼城、豊見城であった」。
南部一体の12間切を支配していた大王国だったわけである。

南山王は、承察度(ウフサトウ)、汪英紫(オウエイシ)、汪応祖(ヤフス)、他魯毎(タルマイ)と続く。
汪英紫は承察度の叔父にあたるということだが真偽は定かではない。
汪英紫は、もともとは八重瀬グスク(富盛グスク)の按司で、島添え大里城を滅ぼして島添え大里城の按司となり、勢力を拡大して、山南王叔(サンナンオウシュク・南山王の叔父の意)として独自に明国に進貢している。
そのあと南山城に入って王となった。クーデターという説もあるが、叔父、甥の関係同様明らかではない。王英紫の息子が汪応祖で、汪応祖の息子が他魯毎である。
南山の明国への入貢は1380年の承察度に始まり、1429年の他魯毎まで49年間続いている。

南山城の最後の王が他魯毎である。
南山城の東には水量豊富な「嘉手志川」があるが、
中山王に即位した尚巴志王が、他魯毎南山王に、
「金屏風とこの泉を交換しよう」と持ちかけた。他魯毎は喜んで交換した。
すると尚巴志王は、自分に服従する者にだけに水を汲ませ、服従しない者には汲ませなかった。しだいに人々は尚巴志王を慕い、他魯毎から離反した。
そして、南山王国は滅び中山に統一された。(琉球国旧記より)



県道7号線をはさんだ東側、坂道を下った左に「嘉手志川」がある。
カデシガー。地元では、ウフガー、またはンブガー(産井泉)とも呼ばれている。
水量豊富で、今でもコンコンと水が湧き出ている(古の沖縄で川(カー)といえば湧き水のこと)。

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大木が茂る嘉手志川入口と手づくり郷土賞(平成2年)受賞の記念碑(右)
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絶え間なく潤沢に水が湧き出す嘉手志川。子供たちの格好の遊び場でもある
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嘉手志川から南山城へ向かう石畳道。県道7号線で遮られている

昔、大旱魃で人々が水がなくて困っていたところ、突然、一匹の犬がびしょ濡れになって山の中からでてきた。不思議に思った村人が犬の後をついて山に入ってみると、泉があった。犬は水のなかに入って石になり、人々はこの石を尊信して、石を積んで垣を作り、水を粗末にしないようにした。そして、水の欲しい人はことごとくやってきて水を汲んだ。それで、泉のことを「嘉手志川」と呼んだ。(カデシとは人々が来ることの意)
記録では屋古(久)村の嘉手志川と書いてあるのもあるが、屋古(久)が「厄」に通じるということで、後に、村名を屋古(久)から大里に変えたということである。

今でも、コンコン湧き出る水。泉。
三山時代の人々も、ここで水を汲み、夢を語り、恋を語っていたかと思うと、悠久の時の流れが止まっているような錯覚が起こる。
自然の営みは、ずぶ濡れになった犬が村びとの前に現れたときからそのままなのに、人間だけが何代も入れ替わっている。



それにしても、旧高嶺村の村民は、
南山城という大切な遺産を破壊してしまって、取り返しのつかないことをしてしまったと思う。
歴史から学ぶことは一杯あったはずなのに………。残念である。
まして、南山城は琉球の歴史を語るうえでも、重要な城の一つなのである。

が、しかし待てよ。
首里城も、戦争で焼失したあとは琉球大学になって形も影もなくなっていた。
それが今や威風堂々たる首里城の再現である。
南山城にもそんな時代が来ないとも限らない。
いつの日か、南山のつわものたちの夢の跡が忽然と姿を現す時が来るかもしれない。
諦めることはない。期待したいところである。



うずくまっているのではない。飛び立とうとしているのだ。
五月(さつき)の空に鯉のぼり            (玉)




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